怒れるDaiGoの京アニ実名報道批判を見て、某新聞社の最終面接で落ちたのは正解だったと思い至る
話題のこちらの動画をどうぞ。
京アニ実名報道【人の死を金としか考えないマスコミ】の正体を解説【NHKも新聞もグル】
でも、ここではDaiGoさんの話はしません(苦笑)
代わりに私の就職活動、某新聞社の面接での思い出話をひとつ。最終面接の1つ前、面接官の質問は以下でした。
事故が起きた。あなたは遺族のもとへ行って、被害者の写真を取ってこれますか?どうやって話しますか。
やっぱりこういう質問が来るんだなと思いつつ、当時は受かりたかったので「1つの事故として数字的に終わらせるのではなく、被害者の人柄や生きた証を報道することで、事故の実態を正確に伝えたい」みたいなことをごにょごにょ言って最終面接に進みました。
でも、私はそれって本当に必要なのかな?とずっと思っていました。自分の発言に、自分で違和感がぬぐえなかった。
私はあのとき、本当は面接官に「それって本当に必要ですか?」って逆に問いたかった。「わかりません。できないかもしれないです」って言ってみたかった。それでも最終面接に進めるのか、試したかった。
その後の最終面接は泊りがけでした。役員面接以外に、新聞社らしく時事ネタのグループディスカッションが何回かありました。最終日の夜にはデスククラスが参加する懇親会という名の飲み会がありました。
でも、現役記者の話に相槌を打ちながら、ビールを飲みながら、私の心はずっと冷えてました。
まわりはみんな優秀だった。劣等感もあったかもしれないけど、もっと根本的な部分で違いを感じた。もし合格すれば、その場にいる何人かとは同期になるはずです。でも「私はここにいる人たちの誰とも、友達になりたいとは思えない」なんて言葉が頭に浮かびました。
結果はやはり落選。学歴的には最終面接まで残ったのが奇跡なぐらいですし、それで良かったんでしょう。
なにかの間違いで新聞記者になっていたら、私は「実名報道は必要なことだ」と主張する側にまわったと思います。
「自分も悩むことはある。でもね…」と。ただし、そこにあるのは反骨精神とは真逆の服従。自分のやってることの意味を見失いたくないから。上司が必要だって言うから。
自分の行為の正当性をひたすら信じられるほど強くもなく、違和感をぶつけて社内マイノリティになるような勇気もない。
うん、やっぱり向いてなかったんだな。
断っておきますが、私は実名報道そのものが無意味、やめるべきと思っているわけではありません。ただ、自分の本心や倫理観から目を背け「立場的に」実名報道を支持する、支持せざる得ない場に今いなくてよかったと思っているだけです。
論理的に納得できる人は別にいいんです。それか、盲目的に正当性を信じられる人や、違和感を覚えながらも仕事としてとりあえず割り切れる人。
たぶん私は無理だったろうな。それだけの話です。