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娘との生活や読んだ本など

古市憲寿さんは芥川賞にこだわらずにただ書き続けるんじゃダメかな?

第161回芥川賞候補作、古市憲寿『百の夜は跳ねて』の選評がちょっとした騒ぎのようですね。

私は特に文学や文学評論に詳しいわけではないので、以下はただの素人の感想です。

結論からいうと、選評がどうであっても、私は古市さんの作品を読みたいし、書き続けてほしいと思っています。

 

「平成が終わる前に読んでおくか」なんてミーハーな気持ちで『平成くん、さようなら』を手に取った私ですが、読後はしばらく無口になりました。

「死生観」とは社会制度や科学技術で変わるものなのか。それでも愛する人を失う恐怖や悲しみはぬぐえないのか。世の中は日々変容していくものだけど、その過程で実は人間の在り方も少しずつ変わっているのかもしれない。気づいていないだけで…。

無口になりすぎて、感想をまとめておかなかった自分が憎いなと今思いましたね(苦笑)

 

さて、話題の近著『百の夜は跳ねて』ですが、私はコレ単行本化前に、新潮買って読みました。良かったです。ただ自分は『平成くん、さいようなら』のほうが好みだな。そして、なんとなく今作でも受賞はないんだろうなとは思いました。

 

そもそも古市さん自身は本当に芥川賞を欲しているのか、それとも誰かの期待に「芥川賞」で応えたいのか。

普段の活躍から考えると、「文学にさほど興味はないけど、古市憲寿の作品なら読む」という読者がいることが大事であって、文学賞という権威と古市憲寿がミスマッチに思えるのですが(賞は作品自体に与えられるもの。ただし、古市作品の場合「あの古市がコレを書いたのか!」という読み方も魅力の1つではある点は否定できない)。

芥川賞文学賞と言わず、ただ書き続けるだけではダメなのかな?

 

今回の騒動、正直よくわかりません。木村友祐氏が否定していることからも、剽窃ではないのは確かでしょう。私も含めて、大多数の人は文学批評の在り方なんて知らないのです。どうせ取り上げるなら、「なにが、どう問題なのか」論点を整理して解説してほしいものです。

でも、まぁ、たぶん無理でしょう。多くの人たち人は文学に興味はなく、おそらくこの件を正確に理解できた記者やライターも一握りでしょうから。

 

個人的には古市擁護派にまわったという奥泉光氏の「外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた」の発言が興味深かったです。ちょっとその話もう少しkwskと思うのですが、興味を持ったなら自分で勉強しろってことですかね。

 

社会学者」という肩書で専門分野があるようなないような幅広い著作、ふわふわと掴みどころがない人物像。おそらく「軽薄」「こざかしい」「文化人枠のタレント」といった自分への一部の人々の批判も古市さんは知っているでしょう。

専門を極めることとは真逆の緩さ。でも、私はそういう人がいて、社会で成功してもいいと思います。このゆるさの行きつく先を見てみたい。

 

しばらくは、小説も書き続けてほしいです。古市さんの書く小説、わたしは「今この瞬間」に読みたい。登場する固有名詞をリアルタイムで理解できるうちに。

何度も読み返す作品がある一方で、「今ここで読むこと」に1番意味や意義を見出せる作品もある。それに「今読みたい」と感じる読者が多いほうが新刊の売り上げも安泰でしょう(笑)

 

古市さんにはちょっと似合わない言葉だけど、書き続けることでしか「渾身の一作」は生まれないんじゃないかな。とりあえず次回作待ってます。