80%ぐらいのがんばり

娘との生活や読んだ本など

古市憲寿さんは芥川賞にこだわらずにただ書き続けるんじゃダメかな?

第161回芥川賞候補作、古市憲寿『百の夜は跳ねて』の選評がちょっとした騒ぎのようですね。

私は特に文学や文学評論に詳しいわけではないので、以下はただの素人の感想です。

結論からいうと、選評がどうであっても、私は古市さんの作品を読みたいし、書き続けてほしいと思っています。

 

「平成が終わる前に読んでおくか」なんてミーハーな気持ちで『平成くん、さようなら』を手に取った私ですが、読後はしばらく無口になりました。

「死生観」とは社会制度や科学技術で変わるものなのか。それでも愛する人を失う恐怖や悲しみはぬぐえないのか。世の中は日々変容していくものだけど、その過程で実は人間の在り方も少しずつ変わっているのかもしれない。気づいていないだけで…。

無口になりすぎて、感想をまとめておかなかった自分が憎いなと今思いましたね(苦笑)

 

さて、話題の近著『百の夜は跳ねて』ですが、私はコレ単行本化前に、新潮買って読みました。良かったです。ただ自分は『平成くん、さいようなら』のほうが好みだな。そして、なんとなく今作でも受賞はないんだろうなとは思いました。

 

そもそも古市さん自身は本当に芥川賞を欲しているのか、それとも誰かの期待に「芥川賞」で応えたいのか。

普段の活躍から考えると、「文学にさほど興味はないけど、古市憲寿の作品なら読む」という読者がいることが大事であって、文学賞という権威と古市憲寿がミスマッチに思えるのですが(賞は作品自体に与えられるもの。ただし、古市作品の場合「あの古市がコレを書いたのか!」という読み方も魅力の1つではある点は否定できない)。

芥川賞文学賞と言わず、ただ書き続けるだけではダメなのかな?

 

今回の騒動、正直よくわかりません。木村友祐氏が否定していることからも、剽窃ではないのは確かでしょう。私も含めて、大多数の人は文学批評の在り方なんて知らないのです。どうせ取り上げるなら、「なにが、どう問題なのか」論点を整理して解説してほしいものです。

でも、まぁ、たぶん無理でしょう。多くの人たち人は文学に興味はなく、おそらくこの件を正確に理解できた記者やライターも一握りでしょうから。

 

個人的には古市擁護派にまわったという奥泉光氏の「外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた」の発言が興味深かったです。ちょっとその話もう少しkwskと思うのですが、興味を持ったなら自分で勉強しろってことですかね。

 

社会学者」という肩書で専門分野があるようなないような幅広い著作、ふわふわと掴みどころがない人物像。おそらく「軽薄」「こざかしい」「文化人枠のタレント」といった自分への一部の人々の批判も古市さんは知っているでしょう。

専門を極めることとは真逆の緩さ。でも、私はそういう人がいて、社会で成功してもいいと思います。このゆるさの行きつく先を見てみたい。

 

しばらくは、小説も書き続けてほしいです。古市さんの書く小説、わたしは「今この瞬間」に読みたい。登場する固有名詞をリアルタイムで理解できるうちに。

何度も読み返す作品がある一方で、「今ここで読むこと」に1番意味や意義を見出せる作品もある。それに「今読みたい」と感じる読者が多いほうが新刊の売り上げも安泰でしょう(笑)

 

古市さんにはちょっと似合わない言葉だけど、書き続けることでしか「渾身の一作」は生まれないんじゃないかな。とりあえず次回作待ってます。

私を支え続けた「死にたいと思ったら本を100冊読め」という言葉

帰るべきところへ帰るだけ。

 

別に死にたいと思っているわけではないのだが、死にたいというほど追い詰められているわけでもないのだが、「人生の行き止まり」感みたいなものを覚えてどうしようもないときがある。

 

先日「これから先、自分にとって起こるかもしれない人生のサプライズは、良いものよりも、悪いものである可能性のほうが明らかに高い」とふと気づいた。多感だった10代の頃も、人生でよくないことが起こる想像はした。でも、同じように良いことが起こる想像もできたのだ。まだ何者でもなかったから。

 

そんなおり、久々に小説を読んだ。救いをその本に求めていたわけではなく、本当になんとなく。読書は生活の一部だけど、最近は実用書が多く物語はあまり読んでいなかった。

 

読みながらタイトルの言葉を思い出した。「死にたくなったら本を100冊読め」。かつての私にとって座右の銘だったはずなのに、なぜかここ1年ほど忘れていた。

このセリフはご立派な小難しい本に書かれていたものではない。大槻ケンヂのエッセイに「漠然と死にたくなったらどうしたらいいの?」という読者の質問があり、それに彼が答えていたものだと記憶している。大槻ケンヂ自身の言葉ではなく、北方謙三氏の言葉の引用、またはオーケンなりの解釈を加えたものだったかもしれない。

私はこの言葉に出会ったとき、「確かに」と納得し、自分にとってこれ以上の処方箋はないだろうなと思ったのだ。

 

そうだった。本はいつでも私を助けてくれたし、これからもきっとそうだ。毎日に嫌気が指しても、例え悪いサプライズが起こっても、私には「本を読む」という楽しみが、喜びが残されている。時に隣の芝生が青く見えたって、私はただ本を読んでいるだけで幸せを感じられる人間じゃないか。もしお金がなくなって生活に困っても、図書館で本を読むという楽しみが私には残るはずだ。そのとき、そのときの自分の気持ちに寄り添ってくれる本が絶対に世界には存在する。

 

私が子供に教えられることはとても少ないけれど、本を読む習慣さえつけてあげられれば、いつかあの子を助けてくれるかもしれない。

 

100冊読んだわけではないけれど、上・中・下巻の長編小説を読み終えて、私の心は今とても穏やかな状態にある。また荒れる日がくることはわかっているのだけど、そうしたらまた本を読めばいい。

 

 

 

 

 

 

 

日曜の夜にキッチンに立つのをやめられない理由

サザエさん症候群」なんていって、日曜日の夜に憂鬱になる人は多いらしく、私もその一人です。憂鬱というか、眠れない。昼間寝すぎた訳でないのに、日曜の夜は過ぎ去っていく休日を無意識に惜しむのか、寝つきが非常に悪いです。

 

まあ、本当に「学校イヤ」「仕事行きたくない」の頃に比べると、多少憂鬱なだけでそこまで精神状態が悪いわけではないので許容範囲かなと。多少、厄介な習慣として付き合っていこうかな…と最近はあきらめムードです。

 

で、どうせ寝れないならと、子どもを寝かしつけた日曜の夜、9時、10時以降になにをしているかというと、キッチンに立っているわけです。主に月曜日からのおかずの作り置き・下ごしらえです。

 

なんていうと、すごく有効な時間の使い方に見えるけど、違いますからね。別に明日、適当にあるものでごはん作って睡眠時間を確保したほうがよっぽどいいんですよ。夜中12時過ぎてカレーをぐつぐつ煮込み始める必要なんて、まったくないんです。カレー作りたいなら、せめて夕食時に野菜ぐらいは切っておけよって話ですよ。肉も冷凍庫なのに、レンジで解凍して作り始めるんですよ。自分でも、「ああ…いったいなにしてるんだろう…?」と。

 

なぜ私は日曜夜にキッチンに立ってしまうのか。

考えた結果、おそらく過ぎ去る休日ともに、私が引き止めたいのは『日常生活をちゃんと送っている実感なのだ』という一応の結論がでました。

 

「手料理にこだわるなんてナンセンス」「イライラするよりお惣菜」「『丁寧な暮らし』なんて今は絶対無理!」と普段は思っているんですが、仕事→保育園→仕事→保育園の往復生活だと侘しい気持ちになる瞬間があります。

 

仕事にやりがいがないわけじゃないけれど、「金のために自分の時間売ってます」というのは認めざるを得ない事実なわけです。

10億円くれるって言われたら即「やめる」とまではいわないものの(老後長そうだし、いろいろ不安だからw)、確実に勤務時間は短くしますね。週休3日ならなんて素晴らしい人生が送れるんだろうと妄想してみたり(苦笑)

 

今の生活は幸せです。

でも、もう少しだけペースを落として生きられたら、きっともっと幸せです。

 

一人キッチンで料理をしていると、自分がしっかりと地に足のついた生活をしている気がしてきます。

かつおぶし削ってお出汁をとってみたいなレベルではなくても、材料を切って、炒めて、煮込んで、自分好みに味付けて、自分や子供が食べるものを自分の手で作る。パソコンで数字を確認するときとは種類の達成感を得られます。

 

家族や友人と穏やかに過ごしながら、真摯な仕事がしたい。それだけが望みだけど、日々があまりにも早く過ぎ去ってしまい、それすら難しい瞬間がある。そんな行き場のない気持ちが私を夜中のキッチンに駆り立てるのです(なんかちょっと気持ち悪いぞ!)。

 

まったくの余談ですが、私が好きな漫画に『きのう何食べた?』『3月のライオン』があります。どっちも超有名作品なので詳しい説明は省きますが、なんというかすごい事件が起こるわけではないのだけど、登場人物たちが日々をひたむきに生きている感がツボなのです。

 

きのう何食べた?』はゲイカップルが主人公の日常系献立漫画(「料理」ではなく「献立」なのがポイント)です。この漫画の副菜で我が家の定番になったものも数多く実用性も抜群。登場人物が連載とともに年をとっていき、もうすぐ10年が経過する。すごいとしか言いようがない。

きのう何食べた?(13) (モーニング KC)

きのう何食べた?(13) (モーニング KC)

 

 

3月のライオン』は日常パートと、棋士である主人公・零くんの対局パートがありますが、私は川本3姉妹の日常パートが最近すごく沁みるようになりました。

それぞれ苦悩はあるんです。あるんですけど、日常は淡々と流れていき、その中で楽しい出来事、小さなハレの日が存在している。

 

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

3月のライオン (1) (ジェッツコミックス)

 

 

もやもやとした気持ちを抱えて日曜夜にキッチンに立つ私ですが、本日昼間は買い物へ行き、「青梅・ホワイトリカー・氷砂糖」を購入してきました。そうです、梅酒づくりです。特にこだわったレシピがあるわけではなく、「毎年まぁこんなものかな?」となんとなく漬けています。時々、瓶をひっくりかえしたりして、出来上がっていく過程を見るのは、自家製ならではの楽しみです。

 

今年は娘にヘタとりを手伝ってもらいました。手伝ってもらいながら、「梅シロップも作れば、ジュースにしてあげれてよかったんじゃ…」と気づきましたが1キロしか買わなかったので梅が足りずw あとでね!

 

「いや~充実した休日だった。よし、これなら惜しむことなく寝て月曜日に備えられるな」と思ったのに、結局寝られず、現在に至る…というわけです。

 

梅酒づくりなんて季節のイベントこなして、我が家にしては「丁寧な暮らし」だいぶいい線いってると思ったのに…!思ったのに!やっぱり寝られないんだなこれが。

転園後の「保育園行きたくない」発言に休ませる決断をした

子供に「保育園に行きたくない」と言われたらどうしますか?私は休ませました。シングルマザーで決して裕福ではなく、今年はすでに有給を使い切り、次の付与まであと3か月以上あります。ですが、「とりあえず休ませる」「私も仕事を休む」という選択をしました。

子供は、年中進級(現在4歳)と同時に引っ越すことになり、1歳から通っていた保育園から転園しました。可能性として覚悟はしていたものの、恐れていた登園拒否が起こりつつあります。特になにも言わず、行くこともあるので「登園しぶり」と呼ばれる範疇なのかもしれませんが、今後どうなるのかも不透明です。

登園しぶりの時は、休ませたほうが良いという意見もあれば、休ませると「休み癖がつく」なんて指摘も聞かれます。確かにちょっと嫌なことがあれば、お休みしようと思われては困りますね。でも、それでもやっぱり「休ませる」という選択で今は良かったのかなと思っています。

辛いときには「休む」という選択肢があることを示したかった

母親である私が働かないとごはんが食べれない我が家。4歳児に休み癖がついたら本当に先行き不安ですし、「ママはお仕事を簡単に休める」とも思われたくありません。

でも、私はそれ以上に「保育園は休めない場所」「休むのはダメなこと・悪いこと」と子供に理解されるのが今後のためによくないというか、自分が子供に伝えていきたい価値観とは少し違うかなと考えました。これが休むことを認めた1番の理由です。

「頑張る=良いこと」ではないんです。疲れたときは、休むのもあり…というか休むのは頑張るのと同じぐらい大切なことです。

保育園で過ごすためにエネルギーの充電が必要だった

休ませるときに、娘には「2か月頑張ったもんね。特別にお休みしようか」と言いました。私も娘が頑張っているっことはわかっていたので、その事実は認めてあげたかったんです。新しい園にうつって2か月。疲れが出て、お休みしたくなるのは当たり前なのです。

我が子も含めて毎日保育園に行く子、学校へ行く子は、それだけで相当なレベルで頑張ってると思います。ガス欠にならないように、疲れをためないようにしようと思ったら、本当は子供も大人もみんな週休3日以上は必要なんじゃないかな?

・・・・ということで、誰か毎日会社へ行ってる私の事も褒めてください。

子供たちにも有給休暇があればいいのに

本当は小学校以上の子供たちには、個人が好きにとれる休暇があればいいのにと思います。長期休みを少なくしてもいいから、1年に5~10日ぐらい。ゴロゴロしたり、家族と旅行に出かけたり、自分の興味のある課外活動に参加したりなど、自分の疲労度を把握して休んだり、楽しい過ごし方を計画するのも生きていくうえで必要なスキルです。

「休暇をどう過ごすか」というのは、「人生でなにを大切にしたか」という部分と密接が関わりがあるように思います。それをもっと小さいうちから教えてもいいんじゃないかな。

会社を休んで、こどもと過ごすのは楽しかった

保育園を休んで、会社を休んで、午前中は家の近所の砂場で遊びました。砂場と滑り台しかない広場ですが、ここで2~3時間過ごせる我が子です…!

それから、ゆっくりお昼を食べて、砂場で汚した服をお風呂場でじゃぶじゃぶするついでに、洗濯機をまわす。一応、保育園の生活リズムは守ろうかということで、娘はお昼寝タイム。起きてからは、平日なかなか行けない銀行と役所の用事に付き合わせましたw 

夕方は雨が降ってきたので、地域の子供の遊び場(室内)で1時間ほど過ごし、帰宅後は麺類で簡単な夕食。お風呂に入って就寝です。

なんてことのない1日です。でも、子供と一緒にいられて、私も幸せでした。

娘が「保育園に行きたくない」理由はたぶん…

保育園などで子供がなんらかのトラブルを抱えてそうなときは、対策を練ることも大切ですが、我が子の場合、保育園に行きたくないのは「不慣れな環境への疲れ」が原因だと思っているで現段階ではあまり問題視していません。

娘や保育園の先生から聞いた話を考えると、娘は転園先にまだ慣れてなくて「新しいお友達」のつもりなんだけど、保育園のお友達は娘がいることに慣れてきて「新しいお友達」扱いしないというか、遠慮がなくなったんじゃないかな。まぁ、当たり前のことというか、むしろ自然に仲間として受け入れてくれたなら良いのでは?と思うのですが。

親である私が転園先の保育園に対するネガティブな感情があまりないので、そこまで不安にならずに済んだのだと思います。

もし今の職場じゃなかったら理解ある親ではいられなかった

「自分の価値観」とか偉そうにいいましたが、こんなこと言っていられるのは職場に恵まれているからというのは承知のうえです。

もちろん入園直後とか預け始めの時期に、こどもが泣いてもバイバイすることは決して悪くないと思います。そっちも経験してますしね。

「休む」にあたって娘とした約束

朝の準備時間に「保育園に行きたくない」と話す前、娘は1番最初に「おなかがいたい」と訴えてきました。ただ、体調不良にはみえなかったので話を聞くと「本当はおなかは痛くない。保育園に行きたくないのだ」と訴えてきました。

こうした経緯があり、子供との特別な休日を過ごしなら、ある約束をしました。

それは、

1.保育園に行きたくないときは「行きたくない」とそのまま伝えてくれれば良いこと

(ただし、「休める」とは言ってないのが大人のずるいところです)。

2.「お腹が痛い」と言うのは、本当にお腹が痛いときだけにすること。

この2つです。

4歳にもなれば、体調不良を装えば、保育園を休めるということを知っています。おおよそ見抜けますが、本当に体調不良の可能性もゼロではないので、疑ったり、試すような発言は極力したくありません。

また、行きたくなくて「お腹が痛い」と嘘をついてしまう気持ちも受け止める必要がありますが、ストレスが心身にあらわれているなら更に自体は深刻です。

普段から「行きたくない」を「お腹痛い」に置き換えて発言していると、こうした兆候を見逃してしまう恐れがあると思ったので、上記のような約束したしだいです。

さてさて、今日は保育園に行けるのだろうか。

 

【追記】その後、登園しぶりはどうなったか。

4月に転園し、6月に初めて登園しぶりを起こした娘。

幸いにも、その後2か月は激しい登園しぶりもなく(泣くほどじゃないけど「行きたくないな~」みたいな雰囲気の日もありましたが)、夏が終わるころには新しい園にも慣れてきました。

ただ、秋になると、再び登園しぶりが起こりました。

しかも、「とりあえず保育園までゆっくり行ってみようか」といつもは車の道のりをぶらぶら歩きながら登園したところ、途中までは元気がでつつあったのに(散歩が好きな子なんです)、最終的に「やっぱり嫌だ」と玄関先で泣きわめくなど、転園間もない時期に比べて激しめの登園拒否です。

最初は理由がわからなかったのですが、のちに運動会の練習が嫌というのが原因だとわかりました。前の園に比べて運動会に力を入れる園だったので、プレッシャーを感じたみたいです。こどもの「行きたくない」にはいろいろな感情が隠れているんですね。

行きたくない原因が判明したので、先生にも事情を伝えました。

娘には「失敗してもいいんだよ~」「自分なりにがんばればいいんだよ~」「できなくても恥ずかしいことじゃないんだよ~」と、ひたすら気を楽に持て!というメッセージを送り続け、家ではストレスケアに努めました。

そして、運動会本番が近づき練習が本格化すると、良いんだか悪いんだかわかりませんが、「なんだ~!できないのは自分だけじゃないんだ~」と気づいて開き直ったようです(苦笑)

それからは登園しぶりもなく、運動会も出席できました。終わってからはもう「がんばった!本当がんばった」と褒めまくり、労りまくりです。

無事、転園した園を卒園しています。

ブログは現代の資産である『金持ち父さん、貧乏父さん-アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』  

 

ビジネス本として大ベストセラー、ベストセラーゆえにかネットワークビジネスマルチ商法)でも活用されているらしいロバート・キヨサキ著『金持ち父さん、貧乏父さん-アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』の書評・感想です。

 

金持ち父さん貧乏父さん

金持ち父さん貧乏父さん

 

 

マルチ商法に利用されていると知ったのは、読後だったので、特に偏見なく読めました。別に『金持ち父さん、貧乏父さん』がマルチ商法を勧めているわけではないので、誤解しないように!

 

あらすじとしては、著者の実の父親である高い教育を受けた「貧乏父さん」と、教育レベルは高くないにも関わらずハワイ有数の資産家になった友人の父親「金持ち父さん」の口癖や生き方を比較しながら、大金持ちとなった著者が人生を通して得たお金に関する哲学を伝える…といったところでしょうか。

 

さて、『金持ち父さん、貧乏父さん』では、「資産と負債の違いをはっきりさせる」ことを1つの大きなテーマとしています。この本は、初版2000年となっておりますが、2018年に生きる私は、1つの確信を得ました。

 

それは…

 

ブログなどのWEBコンテンツは現代の資産である

 

金持ち父さんは言います。

 

資産は、私のポケットにお金を入れてくれる

負債は私のポケットからお金をとっていく

 

金持ち父さんが本当の資産と記したものは、以下の通りです。

 

  1. 自分がその場にいなくても収入を生み出すビジネス。
  2. 債券
  3. 投資信託
  4. 収入を生む不動産
  5. 手形・借用証書
  6. 音楽、書籍などの著作権特許権
  7. その他、価値のあるもの、収入を生み出すもの、市場価値のある物品など

 

1に関しては、自分がその場にいて働かなければいけないものは、含めないとしています。

そのため、金持ち父さんは会社を所有しており、運営は他の人に任せているので、1があります。

 

かつては、そうでもしないと、1番は手に入らなかった。

しかし、現代は違います。

 

そう、1番とはまさに、アドセンスアフィリエイトなどの収入が得られる、ブログなどのWEBコンテンつです。確かに記事作成の時間はかかりますが、1度公開すれば2~3か月放置しようが、その間も本人の代わりにブログが稼いでくれます。

 

これは、紛れもない現代の「資産」です。それに気が付いている人が多いから、現代はブログ、アフィリエイト大人気なのでしょうね。私はこの1~2年で気が付いた。みんな気が付くのが早くてすごいな~。

 

しかも、金持ち父さんは、自分が1番好きな資産を手に入れるように言っています。「好きでないと、きちんと世話ができないから」と。このあたりも、ますますブログっぽいですよね。

 

なかには、お金になるので好きでない分野のアフィリエイトをやっている方もいますが、ある程度の興味はないとやっぱり続かないと思いますし。

 

ブログは貧乏でもできる資産形成の方法

 

しかも、ブログなどのWEBコンテンツは、はじめるまでのハードル、リスクが低いのが特徴。株や不動産を買うには、元手が必要ですが、ブログやアフィリエイトはほとんど初期投資なく始められます。お金のない人でもできる資産形成の方法です。

 

ただし、さすがにブログだけでお金持ちになるのはかなり難易度高い道のはず。資産であることには間違いないけれど、それだけでお金持ちになるには難しいという位置づけではあります。コンテンツで稼いだお金には、お金を産み出すためにさらに働いてもらわなくてはなりません。

 

ちなみに著者は、リスク容認派というか、「金持ちになるならリスクをとる必要がある」という考え方のようです。投資に関しても、「バランスよりも1点集中」で、よく資産運用で言われているような、卵をたくさんの籠に分けて入れる方法には賛成していません。

 

まぁブログで稼ぎたいっていう層は、「一攫千金!不労所得!」を本気で目指している人は少数で、あくまで本業(サラリー)があるうえで、月数万程度の副業(複業)という堅実な意識の人が多いと思います。

 

『金持ち父さん、貧乏父さん』は、中流ではなく、真のお金持ちになることを推奨している本なので、手法が違うのは当然でしょうね。

 

人生につつきまわれたときが学チャンス

 

「金儲けの方法を教えてほしい」と言ってきた子供の著者を、金持ち父さんは途方もなく安い賃金で3週間働かせます。しかし、一向に金持ち父さんは答えを教えてくれない。著者が抗議に来ると、金持ち父さんは、こう言います。

 

もし人生から教訓を学ぶことができれば、きみは成功する。

もし学べなければ、人生につつきまわされるばかりだ。

 

金持ち父さんは、お金持ち=幸せとは言いません。

恐怖と欲望の罠にはまっている人は、お金があっても決して幸せではない。感情に支配されずに、ものを考えることが大切なのだと説きます。

 

私はこれを読んで、本多静六『私の財産告白』に収録されている『私の体験社会学』の「恐るべき被害妄想」という章を思い出しました。

本多静六は、大学教授という身の上でありながら、貯蓄と投資によって莫大な財を成した人物です。私はインベスターZをきっかけに知ったのですがw

 

人生における七転び八起きも、つまりは天の与えてくれた一種の気分転換の機会である。これを素直に、上手に受け入れるか入れないかで、成功不成功の分かれ目となってくる。 

 

お金について真剣に考えることは、自分の生き方を真剣に考えることにも繋がります。 単なるテクニックに限らない、お金の本を今後も読んでいきたいです。

 

インベスターZ(18)

インベスターZ(18)

 

 

私の財産告白

私の財産告白

 

 

 

 

 

ちきりんはやっぱりすごい『未来の働き方を考えよう』

ちきりん著『未来の働き方を考えよう』(文藝春秋)を読んだのですが、やっぱりちきりんさんはすごいなぁと。ネット上の人がもう1億回ぐらい思ったことを、本を読んで改めて思ったので、書き記しておくことにします。

 

 

超ざっくりいうと『未来の働き方を考えよう』は、「新卒採用→65歳で定年で第二の人生」のような生き方はもう無理だってみんな気づいてるよね。プラス今の子供は将来海外で働く機会も増えるよ。現代の働き方は、これから大きく変わるよ。あなたは未来をどうするの?という本です。

 

正直、第3章ぐらいまでは、特に目新しい記述はなかったです。

働き方革命系の本を何冊か読んでいたり、それこそネットでちきりんさんとかイケダハヤトさんとかphaさんとか伊藤洋志さんなどをフォローしている人なら日々触れている情報です。

 

〈序章〉 ”働き方本”ブームが示すモノ

〈第一章〉現状維持の先にある未来

〈第二章〉世界を変える3つの革命的変化

〈第三章〉新しい働き方を模索する若者たち

 

第3章までは、ちきりんさんが読んだ本のまとめで、現状把握といったところでしょうか。末尾の<参考文献>とともに、面白そうな本があればマークしておきましょう。私もリンダ・グラットン著『ワークシフト』をkindleでポチっておきました。

 

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

 

 

しかし、4章からが「ちきりんのすごさ」というか、この方が支持されている理由がわかってきます。

 

途中まで読んで、『自分の頭で考えよう』は、読み進めるたびに発見や驚きがあったのにと物足りなく思っていても、やはりちきりんさんの本は一定の満足感を読者に与えてくれます。

 

ちきりんのすごさ1:著者の結論がしっかり明記されている!

 

4章以降は以下のように続きます。

〈第四章〉「ふたつの人生を生きる」

〈第五章〉求められる発想の転換

〈終章〉 オリジナル人生を設計するために

 

第4章からは、現状を踏まえたうえでの、ちきりんさんの結論。

それは「職業人生は2回選ぶ」と考えること。

 

40代で働き方を選びなおす。1度目の就活がパッケージ旅行なら、2度目の就活は自由旅行。なにもわからない20代の就活と異なり、40代なら自分や社会を少しは知っていて、人生の有限性を意識する頃です。この時期に本気のワークライフバランスを実現しようというのです。

 

うん、おもしろい。

・40代での就活は厳しすぎる。

・ちきりんは強者だからできる。

など実現可能性にはいろいろケチつけられますよ。一言でいうなら「理想論じゃん」とね。

 

でも、さんざん「問題です!こんな点が問題です!未来は大変です!」って不安を煽っといて、読者の「じゃあ私たちはどうすればいいの?」という問いかけには「自分磨きを頑張るしかないよね~」みたいなふわっとした結論しか出さない著者のなんと多いことか(1500円返せって気分になる)。

 

もちろん本を通して課題を認識し、読者自身がそれを考える行為も大切です。ですが、せめて「こんだけ問題を認識してるあなたの結論はどうなのですか?」と。

 

そういった意味で、ちきりんさんの姿勢というのは、非常に誠実で好感が持てます。

 

ちきりんのすごさ2:わかりやすく説明し、他人をその気にさせる力

もともと、ちきりんさんは、他人にわかりやすく伝えるということに非常に優れた方です。いろいろ漏れ聞かれていますが、ご自身では経歴を明かさず、これほどの支持を得ているのはその証左でしょう。図やグラフの使い方も、非常に参考になりますねw

 

「ちきりんは、強者だから」といいますが、ちきりんさんぐらい頭が良くても、

・新卒時には、10年後、20年後の働き方や自分のやりたいことなんてわからない

・死ぬまでお金に困らない人とは、寿命が短い人

という部分もよんで、「このぐらい頭の良い人でも、現実はこうなんだ」と私は安心しましたw

 

ちきりんさんの論を実現するには、そうした40代で生き方を選びなおす人がたくさん出てこないといけません。理想論を理想論のまま飾っておくのではなく、実行に移す人が増えれば、それは一つのモデルケースになります。

また、雇われに関しては、40代でキャリアチェンジしても、「使えるじゃん」という人がふえれば、採用のハードルも下がります。

 

・40代で職業人生を選びなおし、定年年齢でプツリと引退するのでなく緩やかに引退する人

・反対に、40代で子育てを終えて、バリバリ働きに出る元専業主婦

 

こうしたモデルケースがたくさん出てこそ、社会もそうした人を受容しはじめます。大企業を惜しげもなくやめたり、今とは違う働き方を模索する若者が増えたように。

 

だからこそ、ちきりんはこの本で、あえて特定の読者を限定せずに、就活中の学生やサラリーマン、専業主婦など、たくさんの人に問いかけ、それぞれの立場の人向けの「例」を挙げているのではないでしょうか。

 

※ちきりんさんの著書に限らず、こういう新しい働き方だったり、自己実現の本を読んで、その気になった人が仕事やめたりして、痛い目を見ることもあります。これだけうまいと「罪深い」面もあるのかもしれませんね。

 

ちきりんのすごさ3:キャリア形成に関しての話が上手いw

読者の「じゃあ私たちはどうすればいいの?」という問いかけには「自分磨きを頑張るしかないよね~」みたいなふわっとした結論しか出さない著者のなんと多いことか(1500円返せって気分になる)

 

って書いた舌の根も乾かぬうちに…ですが、ちきりんさんぐらい上手ければ話は別です。ちきりんの中の人が言われている通りなのだとしたら、餅は餅屋ということなのか。いや、別世界の住人過ぎてよくわからないのですが。

 

「 〈終章〉 オリジナル人生を設計するために」は、以下の3つで構成されています。

ステップ1. 手に入れたい人生を明確にしよう!

ステップ2.複数の将来シナリオをもとう!

ステップ3.市場で稼ぐ力をつけよう!

 

ステップ2のキャリア形成・5つのシナリオメゾットは、やってみる価値ありです。

 エンジニアならエンジニア、営業職なら営業職など、その後のキャリア形成であり得る道を5つ考えます。

 

例:今の職業がエンジニアの場合

(著書ではもっとよい例が詳細に載ってます)

 1.オタクエンジニア道

2.トレンドを追う売れっ子エンジニア

3.エンジニアというバックボーンを生かした営業職

4.組織マネジメントを身に着けて、最終的には組織の経営者側へ

5.自らベンチャー企業を起こす

 

「なんとなく今の仕事を続けることには不安がある」という私みたいな人間にとっては、 

うん、こういうの待ってた。

とりあえず、これで不安の正体と自分に足りてない能力がわかる気がする。

 と良い話聞いたな~という感じです。

 

でも、まだ5つも思いついてない。自分の仕事への理解の欠如、自分に足りない能力を知る能力すらないのか…と愕然とするw

 

ステップ3も面白いです。

「市場に近いところで働くことが重要」、子育て中の方は「市場で生きていく力を子どもに身に着けさせるには、どうすればいいのか考えたほうが良い」とあり、このステップ3についてももっと詳しく!特に子育てについてもっとアドバイスしてくれ!

とちきりん氏にすがりつきたいと思ったとこところで読了となりましたw

 

というわけで『未来の働き方を』で、おすすめです!

忙しい人は、第4章以降から読みましょう。

 

子供との遊びが辛いときの対処法

子供との遊びが苦痛なので、今日は一緒にクッキーを作りました!

私はお菓子作りが趣味なわけではありません。むしろ一人では絶対やりません。

ですが、粘土遊びをしながら2時間クッキー屋さんごっこに付き合わされるぐらいなら、もう割高のバターをがんがん入れて、小麦粉をどばどば床に零しても、子供と一緒にクッキーを作ったほうが断然有意義でした!

…子供と遊ぶのが最近、特に辛いのです。子供のことは大好きなのに、フルタイム勤務なので平日は1時間前後しか遊ぶ時間もないのに、遊び相手するのが億劫に思えて仕方ないときがあるのです。

でも、そんな私にも少しだけ打開策らしきものが見えてきました。

同じように悩んでいる方の参考になればと思います。そして、良いアイデアをお持ちの方は、どんどん教えてください(切実)。

子供の遊び相手が苦痛になる3つの原因

まずは、原因から分析します。なぜ、母親である私は、可愛い我が子の遊びに付き合うのが辛いのだろうか?

1.謎のマイルールが存在

赤ちゃんの頃は、ミニカーをぶん投げるなど、自由すぎるほど自由だった子供も、ある程度の年齢になると、ルールを理解して遊ぶようになります。しかし、そのルールが大人からすると理解不能なこともしばしば。

我が家の理解不能な遊びを挙げるなら、2歳の頃にやりだした『鬼のいないかくれんぼ』が代表的です。かくれんぼという遊びを一応理解したからこそできる遊びではあるのですが、「ママはここに隠れて」と押入れの中に連れていかれ、娘は布団に潜る。その後、「まあだだよ~」と娘が叫び続ける遊びです。

今思い返しても、その不毛さに「辛い…」と一瞬でうつ状態になれますね!

2.遊びの終わりが見えない。何度も同じことを繰り返す

『鬼のいないかくれんぼ』もそうですが、子供の遊びは終わりが見えません。最初は微笑ましく思っても、高確率で付き合っている親は途中で飽きます

うちの子は、非常に根気がある性格で、それが私にとってどんなに面白くない遊びであろうとも、一度はじめたらめったに飽きることはありません。砂場にいけば、3時間は余裕で、砂場遊びに集中する。滑り台を滑らせれば、他の子がほかの遊具に目移りしても、「なにがお前そこまで駆り立てるんだ?」というぐらい、登って滑ってをひたすら1人で繰り返す…。

しかし、私などまだ序の口かもしれません。ママ友は、子供がひらがなを覚えてすぐの頃、カルタの読み手をやりたがり、自分はひたすらカルタをとる役割をやらされたそうです。札を全部取って、「そろそろ終わりにしよっか?」と促しても、繰り返される「まだやる!」攻撃。

夢中になっている対象がお勉強に関わることだけに、無下にしてはいけないという心理が働き、競争相手のいないカルタにひたすら付き合ったそうです。

しばらくは夜寝る前など、静かな環境に身を置くと、子供がカルタを読む声が聞こえる…といった後遺症も出たそうです。

3.そんな気分じゃない…が通用しない。

子供が3歳になり、これで少しは一人遊びもできるようになるかな?と思ったら、そうでもなかった。むしろ知恵がついてきた分、真剣にやらないと怒られたり、ダメ出しされるようになりました。

結果、「わぁ~おいしそう!」って、毎日ペットボトルキャプの中に、ビーズ入れて、おにぎりに見立てた物体をもぐもぐと食べる真似を繰り返す日々です。

帰宅後に余力がある日はいいんです。しかし、疲れているときは、表情筋が引きつってます。無理をしている自覚があります。

親にとって苦痛に感じる遊びを見極めよう

子供に好きな遊びがあるように、付き合う大人にも、遊びの好みというのが存在します。

母親である私が好きな遊び

整理した結果、私が子供の相手をしても、ほとんど苦痛に感じないのは以下のような遊びです。

・絵本の読み聞かせ

「何冊も同じ本を読むのが苦痛!」という人もいると思いますが、私は1時間ぐらいなら例え同じ本でも読み聞かせしていてそこまで苦じゃありません(できるなら違う絵本がいいですが)。

娘は図書館の布絵本で遊んだり、絵本や図鑑を見ながら「なぜ?なに」攻撃をしてくることもあるのですが、そうした時間はむしろ好きです。娘の好奇心がどこに向いているのか見るのも好きですし、「よくできているな~」と絵本や図鑑の制作者側の意図を察するのも楽しいです。1番自分の趣味・嗜好にマッチしている遊びといえるでしょう。

・散歩や外遊び

ほぼ週末しか行けないのですが、外遊びを苦痛に感じたことはあまりにありません。むしろ、外に出たい。例え3時間ひたすら砂場で遊ぼうとも、外にいるだけで解放感が違います。公園で子供と過ごす時間は、最も幸せを感じる瞬間です。

・工作・制作・パズルなど

子供の遊びは、大人からすると「それで?」と目的や意味のないものが多い。そうした目的や意味に縛られない遊びが大切なことは理解できるのですが、残念ながら私は童心を忘れてしまったため、付き合いきれないんですね。そのため、なにか目的があったり、目に見える形(成果物)が残ると非常に安心します。

しかも、こうした制作系の遊びは、子供の遊び相手が苦痛になる原因で述べたようなマイルールが入り込む余地も、終わりが見えないといった事態も避けられます。疲れていても、手を動かす行為はむしろ気分転換になって、余計な思考から解放されるメリットもあります。

ちなみに、この理屈でいえば、本当はレゴなどのブロック遊びも良いはずなのですが、娘はまだ大したものが作れないので、指人形用の部屋を作って!などと指示されるので、私はあまり楽しくないという現実が…。

母親である私が苦手な遊び

私が苦手な遊びは疑いようもなく以下です。

ごっこ遊び

おままごと。お店屋さんごっこ。バスごっこ。などなど。

馬鹿らしいとは思いません。よく思いつくな、よく見てるな~と感心はするし、保育園ごっこなどは普段の様子が知れて興味深いです。ほかの人と娘が一緒に遊んでいるのを見るのも楽しい。

しかし、自分が参加するはダメ。「これ、いつ終わるのかな?」と遊びが始まって5分後には、気もそぞろになっています。

好きな遊びとして、「工作・制作・パズル」をあげたのとは逆に、なんの目的もなく、なにも残らないことに時間を無駄にしているような感覚に襲われてしまい、集中できないのです。

現在、実践している対処法

端的にいうと、子供をできるだけ母親である自分の好きな遊びに誘導することです。

私はごっこ遊びが苦手なので、それを回避するように、その他の遊びで時間を埋めるようにしています。

人によって苦痛に感じる遊びが違うので、「全然参考にならない!」と思うかもしれませんが(石を投げないで!)、重要なのは遊びの主導権を子供ではなく、親が握ってしまうという発想の転換です。

ごっこ遊び」を「本物」に切り替える

 冒頭で述べたように、お菓子作りは別段好きではありませんが、粘土のクッキー屋さんごっこはそろそろ遠慮願いたかったので、「粘土で遊ぶ!」と繰り出されたタイミングで、「それよりクッキー作らない?」と誘導しました。

以前、おままごとブームが到来したときには、米をとがせたり、パン焼き機への材料をセットをさせたり、おにぎりを握らせたり、なにもなくてもとにかく卵を割らせてかき混ぜさせたりした際、子供が思いのほか真剣に、喜んで取り組んだという経験からです。

本物に触れさせると、そのときの状況を再現したくて、逆にごっこ遊びがしたくなるという危険性もありますが、料理系は「次はこれ作ろうか?」などネットのレシピ写真を見せたり、「材料はなにが必要?」と買い物メモを作るふりして、エンドレス状態に突入するのを回避できます。

ちなみに路面電車の絵本に影響されて、電車ごっこが流行したときは、一緒に時刻表を調べて乗りに行きました。

本物に触れさせて、子供に悪いこともないでしょうし、計画を立てる時間は大人でも楽しいのでおすすめです。

散歩に連れ出す

家での遊びが苦痛なら、散歩に出ればいいじゃない!

いつもは保育園から帰宅すると、すでに6時を過ぎていて、即夕飯となり、夕食後~お風呂の時間までが遊びタイムです。でも、温めればごはんが即食べられるような状態の日は、帰宅後に10分~20分程度、近所を散歩しています。

夜9時までにお布団に入ることを習慣にしているので、「散歩に行った場合、夕飯後は遊んであげられない」ということは子供に言い聞かせています。(時々、散歩もしたい!ごはん後も遊びたい!となるが…)。

少し夕飯が遅れても、親子でのんびり歩いて、野良猫を発見したりなど楽しい出来事もあって、満足感があります。外で過ごす時間はまったく苦にならないので、たぶん私は密室で子供二人きりというのが苦手なのだと思います。自分が苦手な状況は、できるだけ回避したほうが、良さそうです。

習い事もありなのかもしれない…

実践しているわけではありませんが、子供の遊び相手をするのが辛いという方の場合、習い事をさせるというのもありな気がしています。身につく、身につかないといった次元の話ではなく、子供はいろいろ発散できますし、親も気が楽になるのでは?

ただ、我が家の場合、平日は時間的に無理ですし、やはり保育園で過ごす娘の疲労を考えると、土日はなるべく予定は入れたくないんですよね。そのため、保留。効果的な方法な気はしています。

子供と遊ぶのではなく、一緒に過ごす時間が楽しければOK

子供が好きな遊びを選択して、親もその遊びに楽しく付き合ってあげられれば理想的です。でも、「楽しくないもの」と感じてしまっているものはどうしようもありません。義務感で我慢して付き合うか、強引にでも主導権を握ってしまうか。私は後者のほうが良いと判断しました。

本当は子供も遊びの種類はなんでもよく、単に親に甘えたい、一緒に過ごしたいだけという気分の時も多いように思います。

子供と楽しく遊ぶのではなく、楽しい時間が過ごせればそれでOK。我が家はしばらくそんな割り切りのもと、日々を送っていく予定です。

 

※本記事は、子供が3歳ぐらいの頃に執筆した記事です。我が子は小学生になり、少しずつ事情も変わりつつありますが、「子供の遊び相手が辛い。つまらない」というのは、今も時折感じますねw

トランプやオセロなどルールのある遊びができるようになった点はありがたいですが、その分「もう公園はいいだろ…」と飽きてきました(苦笑)

コメントをいただく機会も多く、「子供の遊び相手がつまらない」というのは大人としては無理もない感情なのだと理解しています。